満たされない欲求

SNSを見るのをやめた。

 

TwitterInstagramのアプリをiPhoneからアンインストールし、MacBookGoogle ChromeにブックマークしているTwitterのページでも、アカウントからログアウトした。こうしてSNSにアクセスすること自体もやめたため、すなわち自ら発信することもやめたことになる。先週の金曜日あたりから完全に自分のSNSの更新は途絶えた。

 

LINEやYouTubeは相変わらず見ているし、TikTokもインストールされているが大して見ているわけでもない。LINEはもはや仕事からプライベートまで連絡を取るツールとしてメールと打って代わり必須のものとなってしまっているし、YouTubeTikTokは身近な交流関係に関わってくるほどのものではない、ほとんど匿名の人間として見ているだけで発信はほとんどしていないものである。

 

思い返すと、暇さえあればいつも無意識のうちにページを開いていた。

朝起きて布団に入ったままぼやけた視界の中でも、たばこを吸いながらでも、電車やバスでの移動中でも、アルバイトの休憩中でも、酒を飲みながらでも、何をしながらでもいつもiPhoneを片手にタイムラインに流れるツイートや友人たちの更新するストーリーズをひたすら見ていた。

 

それと同じくらい、なんてことないことを呟いたり、ふと思ったことを写真に撮ってアップしたり、フォロワーも自分と同じように見ているだろうタイムラインやストーリーズに自分を発信していた。

 

SNSを更新するという行動の動機には、承認欲求が大きいファクターとなっていると思う。誰かに見てほしい、聞いてほしい、自分の中で消化しきれないものを人に触れてもらい、心のもやもやをうまく誤魔化せる便利なツールとしているか、あるいは自分が体験しているもの、たとえば恋人や友達と一緒に過ごしているだとか、美味しいものを食べたとか、他人が羨むだろうと思って見てもらう、そんな仮想のステージとしているか。

 

かくいう自分も、別に人が羨むほどの生活はしていないが、心の中の声を発信する場として利用していた。

それをふとやめようと思ったのは、人の生活を見て自分と比べてしまうほど心が疲弊しきってしまったからだ。

 

長引くコロナ禍で収入が激減し、派遣のアルバイトまでしなくてはならなくなったこの3月は、ちょうど自分を含め大学4年生は最後の春休みで、みんな友達と遊びに出かけたり、旅行へ行ったりしている様子を次々にアップしていた。それに対して自分は朝早く起きては派遣先の倉庫へ向かい、接したくもない人間たちと仕事をしたり、休みの日でも誰とも遊ぶことなく日が暮れるのを待ったりと、対照的な春休みを過ごしている。

そんな気分の沈みがちな中で、依存性と言わんばかりに画面に食いついてしまう自分にも嫌気がさした。

 

そこで新たな時間の過ごし方として、前回の記事でも書いたように読書を始めた。

本を買い、読む。終わったら次の本を買い、また読む。それを繰り返していると、他人の様子が自分の心情に干渉することもない、本の中の世界にだけ没頭できる。デジタル依存の社会だからこそ、いかにもアナログ的な読書という行為が崇められがちな時世であるから高尚な人物になった気さえもする。

 

先日、大学の卒業式があった。式典そのものには参加しなかったが、卒業証書だけは受け取りたかったので、久しぶりにキャンパスへ赴いた。電車での移動には時間を持て余してしまったが、そこも持ってきた小説の文庫本を、乗り物酔いしないかと恐れつつも読むことで解決した。

2年ばかりコロナの流行によってオンライン授業が主流となり、ほとんど会うことがなかった友人と最後の再会をして、何枚か写真を撮った。おそらくみんなInstagramのストーリーズやポストに投稿するのだろう。

すでにその日までにSNSから遠ざかっていたが、自分も学生生活の最後の節目として、一枚くらいInstagramに投稿しようと思ってついアプリをインストールし、ログインしてしまった。

 

トップには、高校の同級生の、ちょうど同じ日に大学の卒業式を迎えたのであろう、自身とその彼女のツーショットの投稿がでかでかと表示されていた。自分にはない、幸せの形を見せつけられた気がした。また、自分と比べてしまった。少し気分が落ち込んでしまった。そして、軽い気持ちでSNSに再びログインしてしまったという自責の念。

そんなもやもやを抱きつつ、またアプリを消した。

 

もう10年前近くになるだろうか。FacebookTwitterが流行し始め、SNSの問題をテレビの報道番組で扱っていたのだろう。それを見ていた両親はこう言葉にした。

SNSなんて百害あって一利なしだな」

そのときの自分は、心の中で反発した。まだ中学2年生くらいだったが、ちょうどその頃にTwitterのアカウントを開設したばかりだった。友達とコミュニケーションを取れるこんな便利なツールを、使ったこともないくせにテレビの情報だけで毒薬のように遇らう、そんな姿勢に苛立ちを感じていた。

 

それから高校生になって、Twitter上で友人も作り、交友関係も今まで考えていなかったほど広くなったが、典型的なSNS疲れに陥った今の自分にとってはその言葉に肯くことも躊躇わない。

 

SNSを絶ってまだ1週間も経っていないが、そこでしかお互いの近況を知ることがない友人やフォロワーたちは、何日かすれば自分の更新がとっくの前に途絶えていることに気づくだろう。

大概の人はそんなこと気にもかけなければ、気づくこともない。しかし、ある程度の人は、毎日のようにSNSに何かしらのアクションをしていた自分が急にいなくなったことに気づくかもしれない。

 

死んだのか?とか病んでるのか?とか、思うのかもしれない。

 

そこで気づいた。自分は、自分がいなくなったことに気づいてほしいという承認欲求を満たすためにSNSをやめているのではないか。

 

今までは発信をし続けることで消化していた欲求を、今度は全く何も発信せず行方をくらませることでその欲求を満たそうとしているだけではないのか。

 

どこまでも満たされない欲求は、形を変えながら消える方法を探し続けさせている。