酔ってますね
えーと、今日も酔ってますね
というか、酔ってない日はないと言うか。
「酔ってない夜を知らない」なんて歌ってる曲ありましたよね。
いやいや、それを言うなら「踊ってない夜を知らない」だろオイオイ(笑)
なんて、おじさんみたいな冗談はさておき。
自分は数字に結びつけた記憶が得意だなとふと思ったり。
たとえば、人の誕生日を覚えたり、この日何があったかを覚えたりするのが得意だなと思ったわけですよ。
カレンダーを眺めて、○月○日は何があった日だとか、誰の誕生日だとか、そういうのがパッと思い出せるもんだなと。
日本史の勉強するときも、年号覚えるのは得意な方だったな。
みんな変な語呂合わせとかを塾とかで覚えたりしてただろうけど、自分はそんなことなかったな(笑)
なにか、数字という記号に、記憶を埋め込む能力に長けてるというか、数字の字面に記憶が表示されるわけですな。
とはいえ、自分は文系の人間で、数学はめっきりできない人間でしたけども。ええ。
そういうのって、意外とみんなあるものかな?
それとも、自分だけそういうのが得意なだけかな?
よくわかんないけど、ちょっとした自分の自慢点になるかも。
よく人の誕生日覚えてるんだなって言われたりするし。
まあ、今日は特に何もネタがないからこんなしょーもない話題ですけど、ご勘弁。
じゃ。また明日。
もうちょっとだけ飲もうかな。飲み過ぎ注意ってか。ワハハ(笑)
10月に突入
気づけば、10月。
そして今日は台風だった。いよいよ本格的に秋を迎える。
加えて緊急事態宣言の解除に伴い、ずっと休みだったバイトも再開した。
おおよそ3ヶ月ぶりの営業だったが、意外と体は覚えているもんだと実感。
予想以上に客が入ったので、正直焦った。でも、不思議と余裕を持って作業をこなせた気がする。
10月は、、今年はなんだか憂鬱な月だ。
何も考えたくない。嫌なことが目の前で起こっても、何も知らない。受け入れない。そんなふうに過ごそう。
今年はそういう年なのだから。
今夜、すべてのバーで
気がつけば9月も今日で終わりだ。いやー、あっという間だった。
7月から続いた緊急事態宣言もようやく解除となり、明日からはまた平常運転になるか、いやまだ予断を許さないか。
特にここ2ヶ月は家に軟禁状態で満足に外で遊ぶことができず、ストレスから毎日のように酒を飲んで過ごしていたが、今夜も例外でない。
ここ最近は「白霧島」の1.8の紙パックを買ってきては家でちびちび飲んでる。
焼酎は25度くらいでロックで飲んでも案外きつくないから、結構な量を一度に飲めてしまうのもおそろしいところだ。
ひどい日なんかは家で一人飲みしてるくせにトイレでオエオエ言うこともある。というか実は昨日もそうだった。
酒を飲んでるうちに色々嫌気がさしてこんな人生ドロップアウトして自暴自棄になってやろうかという気もするが、そんな中読んで面白かった小説の話でもしよう。
中島らもの『今夜、すべてのバーで』(1994年、講談社)である。
先日ブックオフに読まなくなった大量の漫画本を売ろうと思い訪れた際、手に取った一冊である。
実はその前日に、YouTubeでたまたま中島らもの「いいんだぜ」という曲を聴き、中島に興味を持ったのだ。
放送禁止用語の並ぶ過激な歌詞は実に刺激的、そして中島の生き様に感銘を受け、なにか小説を読んでみたいとちょうど思っていたのだ。
なるほど、いいタイミングで古本屋に来たからには中島の小説を買おうじゃないかということで「な行」のあたりを探してみると、何冊か置いてあった。
僕は非常にケチな人間なので、100円で買えるものはないかと思いきやそれはなかった。
「今夜、すべてのバーで」というのは中島のWikipediaで知ったのだが、中島がアル中で倒れた際の経験を基に書かれたもので、なんとブックオフにこれがあった。
どうせ300円くらいと思ってレジに持って行ったが、なんと500円も取られた。
まあまあ、持ち込んだ漫画本が売れりゃその分回収できるだろうと思いきや、漫画本には一銭も値段がつかなかったので、結局ゴミを出したついでに500円落としてきたようなものになった。
夜になってから、せっかくアル中が題材の小説だし飲みながら読もうじゃないかということで、バッチリ焼酎を用意して読み始めたが、これが期待以上に面白かった。
別にここで内容とかあらすじを書くつもりはないが、普段本を読まない自分がここまで惹き込まれたのは何年ぶりかという感じだった。
なんと4時間ほどで読み切ったが、その頃にはベロベロに酒に酔ってやっぱりトイレでゲロゲロした。
これ以来その小説を思い出すと気分が悪くなったので、もう読み返したくない。
岸田新総裁、爆誕
日本中が注目した自民党総裁選挙も、岸田文雄の勝利で幕を閉じた。
昨年の安倍晋三の総理辞任を受け行われた総裁選よりも、今年の方が選挙前から大きく取り上げられ毎日その話題で持ちきりだった。
岸田が総裁に選出されたことは、意外といえば意外であるし、納得できるといえば納得できる。
主にメディアやインターネットでは河野太郎と高市早苗が大きく取り上げられていたから、どちらが勝つかといった方向でしか世論は見ていなかったと思う。
しかし、河野も高市も言ってしまえば腫れ物に触るようなもので扱いにくいとも考えられるので、一番無難な人が選出されてしまったという見方ができなくもない。
これほど注目された二人であったが、ネット上における高市のカルト的支持と、河野への激しいバッシングは非常に印象に残るものだった。
河野はTwitterの利用や大臣として人気を集め、昨年の総裁選でも支持する声が多かったように思えるが、今年は昨年と比べ明らかに批判的な声の方が大きかった。
それは、ネットの保守層による圧倒的な高市への支持が目立ち、高市ヨイショが大盛り上がりしたことから始まった。
河野と高市それぞれ政策や思想に大きな違いが見られ、女系天皇の容認や夫婦別姓の容認、靖国参拝など、対極にあるとも言える。
いわゆるゴリゴリの右派と捉えられる高市はまさにネトウヨたちのアイドルとされ、Twitter上ではさまざまなハッシュタグも作られ、どのSNSでも高市一色だったのが、都知事選の際の桜井誠を彷彿とさせた。
Twitterやヤフーニュース、YouTubeにおいて総裁に誰が相応しいと思うかアンケートがよく取られたが、どのサイトでも高市が圧倒的に人気を集め、これが世論だと言う人も多かった(とはいえこれはネット上での高市支持者が極端に集中したせいとも思えなくない)。
そして一方河野は以前までネット上でも一定の人気を得ていたにも関わらず、総裁選出馬において急に脱原発を謳うのを辞めたり、文春にパワハラ問題をすっぱ抜かれたり、最終的には身内が中国企業とズブズブだと言われ始め、あいつは親中派の左翼で売国奴だというレッテルがベタベタ貼られる始末となった。
そのため嫌中派のネトウヨによって日本の敵だと言わんばかりにバッシングが加速し、あっという間に「総裁選における悪役」に仕立て上げられた。
これが高市の目に止まったのか、高市本人も「自分の支持層による他の候補者への誹謗中傷はやめるように」と声をあげたことに驚かされた。
それに加え、河野優勢と報じたり、逆に高市をあまり取り上げないオールドメディアに対しては相変わらずマスゴミだとか反日メディアだという声も止まない。いつの時もマスメディアはこうしたユーザーからの敵となっている。
別に私自身は高市が嫌いなわけでも、河野を全面的に支持するわけでもないが、こうした「高市は正義、河野は悪」といった構図が出来上がり、しかもそれを肯定することが日本国民が国民たるための鉄則とされていることが非常に疑問に思う。
安倍政権時から、保守思想を持つことが日本国民である証拠と言わんばかりに、政府に対して否定的な意見を持てばやれ反日だの非国民だの言われ、野党議員や反自民派の有権者は韓国人や中国人じゃないかと日本人であることさえ否定されてしまっている。
しかも一番厄介なのが、「愛国心」=「右翼、国粋主義」とごっちゃにされてしまっている。それゆえ、国を愛している者として、日本人として、そういった保守系のスタンスでいることが正しいこと。またそれが日本人としてのアイデンティティになりうると考えてしまう人が多いのではないかと考えざるを得ない点である。
要は「ネトウヨになる=日本人としての市民権獲得」と盲目的に捉えたり、またネトウヨである自覚がないが、自民党・保守思想の支持でいた方がいいだろうと考えたりするネットユーザーが多いのではないかと言いたい。
そのことが今回の総裁選でもネット上で浮き彫りになり、「高市に支持が集まっているし、高市も非常に保守的だ。だから高市を応援しよう」「河野は保守層から見て敵だ。しかもボロも出てきた。だから河野を叩こう」といった形で高市絶対主義、河野袋叩きが可視化された。
今日の開票で河野と岸田の決選投票となった際も、高市側は岸田サイドについたことで、ますます河野を落とせと言わんばかりに岸田を妥協点とする姿勢となった。そして岸田が選ばれたことで、高市支持派は口を揃え「最悪の事態を免れた」と言う。
「高市が総裁になればますます日本は大っ嫌いな中国韓国へ強硬姿勢を見せられ、明るい未来が待っているだろう。河野が総裁になってしまうと中国に乗っ取られ、日本の未来が危うい」といった具合で、そこまでくると熱狂的な野党支持層や左派の人間と言ってることは大して変わりないレベルになってくる。
私自身もどちらかと言えば保守寄りのスタンスを取るが、こうした一方的な視点から物事を見た上に反対の立場の人間を目の敵にすることが疑問でしかない。
何事も穏健に、よく吟味して考えることが大切である。
蛇足だが、野田聖子はなぜ出馬したのか未だによく分からない。
趣味
たまに「趣味はなんですか」と問われることがあるが、返答に困るのが大抵である。
「音楽を聴くことです」なんて答えても、携帯電話でサブスクなどを利用するのが当たり前になった現代において、音楽を聴くことなど誰でもすることであり、そんなの趣味と言えるのかと疑問に思ったりする。
何かスポーツをやったり、バイクでツーリングしたりすることもないし、これといった趣味が自分にはないものだと思っていた。
しかし、2年ほど前にバーで飲んでいるときダーツを勧められ、試しにやってみるとこれが意外とハマった。
たまに何か物を投げたくなる衝動にかられるときがあるが、ダーツは先端が尖った物を好きなだけ合法的に投げまくることができる。
狙った番号のところに入ったときの喜びは、なかなか他では味わえないだろう。
ダーツと出会ってからは快活クラブに通い詰め、ひたすら投げる練習をして、ついにはマイダーツを持つにまで至った。
快活のカウンターで「マイダーツはお持ちですか?」と聞かれ、「持ってます」とドヤ顔で答え颯爽と自分のダーツを取り出す瞬間は優越感に浸れる。
快活で知り合ったダーツの上手いスキンヘッドでデブのおっさん(俺の中ではハゲダルマと呼んでいる)から貰ったタングステン製の本格的なバレルは、自分の実力を倍以上引き出してくれる。
少し話がずれてしまったが、要は趣味をダーツと言うようになった。
就活で履歴書に特技・趣味を記入する欄があったが、そこにもダーツと書き、面接官とその話題で談笑したこともあった。
実際に今年の2月はほぼ毎日朝から快活へ赴いては投げまくり、自己ベストを更新してきた。有料のアプリに月額何百円で登録し、スコアを記録していた時期もあった。
決して初心者の域を脱してはいないが、少しばかり自信も付き、ダーツが趣味だというのを少し誇っていたことも事実だ。
とはいえ、飽き性なところもあるので就活やバイトが忙しくなった途端ぱったりとやらなくなってしまった。
それまでは毎日マイダーツをカバンに忍ばせ、思い立ったとき快活にいつでも行けるようにしていたが、いつしか棚の隅でホコリをかぶっていた。
「趣味はダーツです」と言えなくなってしまうのもなんなので、今日久しぶりにマイダーツを引っ張り出し快活に行ってきた。
何ヶ月ぶりかもう覚えていないが、投げる感覚はしっかり体が覚えていた。3投目にはブルを射抜いていた。
毎日通っていた頃もこうして一人で黙々とひたすらカウントアップをして自己ベスト更新を目指していたが、さすがに集中力が続かない。
隣のブースにカップルがやってきてキャッキャ言いながら楽しそうにハウスダーツで投げているのを横目に見ているうちに、やるせない気持ちになった。
やはりバーなどで酒を入れながら数人で遊ぶのが一番楽しいのかもしれない。
これまで道具にこだわったり、投げ方などのスキルを磨こうと思ったりしていたが、結局のところ人と盛り上がれるゲーム性が自分の中でダーツの魅力だと潜在的に思っていたのかもしれない。
そのため、今日は30分もやらないうちに店を出てしまった。
また自分の趣味が何なのか分からなくなりかけている。
怪文書だらけの家
うちの母親はよく、メモ用紙にいろんなことを書いては家中のあちこちに貼るくせがあるらしい。
NHKが集金に来ると「○月○日不審者あり。警察に通報します」と書いたメモをインターホンの側に貼ったり、ゴミの捨て方などあらゆる事柄の留意点を記したメモを部屋の至る所に貼ったりと、とにかく家中が張り紙だらけだ。
それに加え、このご時世なもので感染予防に関すること(どうせワイドショーとかで見たものをそのまま書いたもの)をぎっしり書いてはキッチンの壁に貼ることもあれば、自分の行動に関しての注意を長文で書いたものが突如リビングのテーブルの上に置いてあることもしばしば。
内容も内容だし、急に長文の書かれた紙があるとびっくりするので、自分の中では怪文書と呼んでいる。
別にそれくらい口頭で伝えればいいのにって思うようなこともあるが、本当に些細なことでもすぐ紙に書いて置いたり貼られたりしているもんだから、毎日毎日怪文書は更新されていく。
「冷蔵庫におかずあります」とか「〇〇のことはこういう風にしてください」とか、なぜわざわざ紙に書くのか。変に筆まめなところがある。
もしこれが文献史料として何十年後に発掘された暁には、研究者も頭を抱えるだろう。
何かと心配性な節があるので、口頭では言いたいことをまとめて伝えきれないとか、一度言っただけでは伝わらないとか思ってるのだろう。俺のことを一体なんだと思っている。
とやかく言ったところで実際本人に直接それを伝える気にもならないし、別に紙なんて丸めて捨てればどうにでもなるので構わないが、家中が怪文書だらけになろうもんなら不気味すぎるがゆえ精神衛生上よくない。というか、風水とか好きそうなくせしてそういうことには気を遣わないのか。
風水的なことで言えば、怪文書のような奇行のひとつに、よく家の中で盛り塩がされていることもある。
うがい薬についてくるような、おちょこくらいの小さなカップに塩が入れられ、それが玄関だとか階段付近の廊下に置かれていることがある。
それに、節分の時期になると豆の入ったカップが自分の部屋にそっと置かれていたこともあった。
何を信念にそのような行動を取るのかしらないが、側から見ると「変な人」としか見られない気がする。だからこそ家の中でしかしないと思うのだが、これをもし外でしていたとしたらゾッとする。もう僕は表を歩けない。
怪しい新興宗教とかに騙されるような漬け込まれやすい人間ではないと思うが、自分からそんなことをしだすようじゃ、今後どのような奇行をするか読めないから怖い。
僕は将来、怪文書と盛り塩のない家庭を築くのだとそっと心に誓った。
堕落した日々を過ごしている
前回の更新が6月の頭であった。
そして、気がつけば8月に突入し、夏本番を迎えようとしている。
この2か月間、何をしていたかと言うと、何もしていないというのが事実である。
就活も5月末を最後に放棄し、とりあえず大学の授業と課題だけをこなしていた。
アルバイトも飲食業なのでコロナ禍による営業自粛に追われているせいでまともにできていない。
とにかくここ数週間は、ニートと変わらないような生活ぶりで、寝るだけ寝て、食べたり飲んだり、たまに遊んだり、自由気ままに堕落した生活を送っていた。
なぜそのような生活をしているのかというと、目標もなにも決めず、ただただ時間が流れていくのを眺めているだけだからなのだろう。
本来ならば就活を続けて内定を取るなり、卒論に向け資料を集めるなり、別のアルバイトを探して働くなりするのだが、これといってやる気もなく、どうにかなるだろうという気持ちで今日を過ごしてきた結果なのだ。要は、甘えているのだ。
そんなこと書いたって別に心機一転するわけでもない。
これやらなきゃなとか考えながらこうして文字に書き出してみたところで結局、
「でもめんどくさいしな」
と思ってとっとと寝たくなる。
なんでこうなってしまったんだろう。